「ホント、広いねー。」
「お前、図書室来たいって言ってたじゃんか。たまにはここで宿題やっつけて帰るぞ。」
あまり学校に長居したくはなかったが、このところ三人組は、左京にちょっかいをかけてこない。
せっかく学校にも大きな図書室があるのだから、左京はここで宿題を片付けるのもいいな、とずっと思っていたのだ。
「うん。終わったらすぐ帰ろ。」
「なんで?俺、ちょっと読みたい本とかあるんだけど。」
「帰ったら、いいことがあるような気がする!」
「いいことってなんだよ。別になんにもないだろ?」
橘花は、近々、ヒイナが自転車を買ってくれると言ったのを待っているのだ。
「じゃ、賭ける?」
「賭けない。ギャンブルは好きじゃないの。」
「ちぇー。」
それを左京に内緒にしているので、余計にわくわくする。
左京が驚く顔を見るのが楽しみだった。
「む・・・今日のは手ごわい・・・。」
「そうか?このくらい解けなくてどうすんだよ。」
「左京くんってほんっと頭いいよねー。大学とか行くの?」
「行ければね。」
そんなことなど知らない左京は、橘花がなぜ早く家に帰りたい、と言うのか分からない。
帰ったところで、どうせ家には誰もいない。
けれどたまには、橘花の言うとおり、早めに帰って、またゲームでもして遊ぶか、などと考えていた。
「なぁ、ゲームでもする?それともテレビ?」
「ん~・・・。」
「なんだよ。家で遊びたいから、早く帰ってきたんじゃないの?」
「そうじゃなくって・・・あっ!!」
「なに?」
「ほらほらっ!」
「え?」
「あ・・・自転車・・・。」
「いいことあったじゃん!ねっ。」
「えっ・・・なんで・・・?」
家に帰ると、庭先に色違いの自転車が2台並んでいた。
「なんで・・・?」
「左京くんが自転車欲しいって言ってたの忘れてたって。で、すぐ買ってくれるって言ってたから。」
「お前、欲しいって言ったのか?」
「ちょっと言ってみた。」
「そんで、いいことあるかも、なんて言ってたのかよ!」
「嬉しくないの?」
「そ・・・そりゃ嬉しいけど・・・。」
「でしょ?」
「左京!」
欲しかった自転車を目の前にして、左京がそれでも戸惑っていると、家の前にリムジンが止まり、ヒイナが降りてきた。
「あ、母さん。」
「左京、ゴメンね。自転車欲しいって言ってたのに、忘れてて・・・。」
「え・・・仕事は?仕事中じゃないの?」
「ちょっと出番待ちの時間があったから、帰って来ちゃった!また戻るけどね。」
「あ・・・そうなんだ。」
「これで遊びに行っても、すぐ帰ってこれるでしょ?門限破ったらダメよ!」
「う・・・門限破ったのなんて、一回だけじゃん・・・。」
「でも・・・あの・・・母さん、ありがとう。」
「いいのよ!」
「おばさん、ホントにワタシのも買ってくれたんだ・・・。」
「あら。なに言ってるのよ。お揃いで欲しいって言ったの、橘花ちゃんじゃない。」
「でも・・・。」
「何を遠慮してるの?変よ?」
「変?」
「本当は一緒に買いに行きたかったんだけどね・・・気に入ってくれた?」
「うん!ホントにありがとう!」
「これで左京と一緒に遊びに行くんでしょ?」
「うん!」
「じゃあさ、これで週末は釣り、決定だな!」
「そうだね!楽しみ~っ!」
「へへっ。やった!自転車買ってもらえるなんて、思ってもみなかったな!」
橘花が両親に、どんな風に告げたのかは分からないが、金を奪られたとか、余計なことは言っていないようだった。
ここは素直に喜んでおこう、と思った。
「週末が楽しみだなぁ。街の端まで行けるかな?」
さほど大きくない街だ。
街の端の湖畔で釣りをすれば、さぞ気持ちがいいだろう。
「わ!ビックリした!!お前、すっごいジャンプ力だなぁ~。」
こんなにウキウキした気分になるのは、いつ以来のことだろう?
「金曜はさっさと宿題片付けて、早く寝て、早起きしなくっちゃな。」
「寒いかな?・・・あ、魚の餌も用意しなくっちゃな。」
「・・・あー・・・気持ちいいー・・・。」
こんなに気分がいいのも久しぶりだ。
左京はゆっくりと湯船に浸かり、身体を温めた。
「さて。寝るかなー。」
風呂から上がり、着替えようか、とした時、不意にバスルームの扉が開いた。
「あっ。ゴメン。」
「えっ・・・。」
「お風呂入ってたんだー。」
「お・・・お前・・・。」
あまりの驚きに、声にならなかった。
「大丈夫!左京くんのちっちゃいチンチンなんか見てないよー。おやすみー。」
「ち・・・。」
「ちっちゃいってなんだ!バカ!!」
バスルームでお互いの部屋が繋がっているのだから、想定できたハプニングであるとはいえ、今まではこんなことはなかった。
橘花がバスルームの扉を閉め、姿を消した途端、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「なっ・・・なんだよ、アイツ・・・。」
「見てないなんて・・・しっかり見てんじゃないか!あー・・・恥ずかしい・・・。」
「ちっちゃいだと!?」
「・・・。」
「・・・ちっちゃくないよな・・・。普通だよ。普通・・・。」
「・・・ってか、アイツ・・・オトコの裸見て、なんで平気なんだよ・・・。」
「こっちが恥ずかしいつーの。」
「風呂場、鍵ついてないしなぁ・・・。」
橘花が平然としていたので、驚きはしたものの、騒ぎ立てる気にはならなかった。
これはもしかすると、逆のこともありえるわけだ。
その時、自分は平然としていられるだろうか?
「あー・・・。ビックリしちゃった。」
「左京くんって、細いのに・・・案外、オトコっぽい体つきしてるんだなぁ・・・。」
平然を装ったのではない。
男の子の、しかも左京の裸を間近で見てしまい、ビックリして、同時にドキドキしたことに自分で驚いてしまって、大げさなリアクションが取れなかった。
「・・・そりゃそうか。男の子・・・なんだもんね・・・。」
左京の裸が目に焼きついて、なんだか閉じた目の裏に、チカチカ光が走る。
ベッドに入っても、しばらくチカチカが続き、胸の鼓動が収まらなかった。
けれど、その光がだんだんと柔らかい色に変わると、橘花はいつしか眠りに落ちていた。
「おーっ。釣り日和だなぁ。いい天気ー。」
週末、朝から出かけよう、と橘花と約束をしていた。
その日は穏やかに晴れ渡った空で、風景まで違って見えた。
「左京くん、お待たせー。」
「何着るか迷っちゃった。」
「別になんだっていいじゃん。遊び行くだけなんだし。」
「変じゃない?」
「何が?」
「服!」
「別に変じゃないよ。」
「女って、なんだってそんなこと気にするんだ?」
「だって気になるもん。ね、どこまで行くの?」
「気の向くまま!ホントに街の端っこまで行ってみようぜ!」
「うん!」
前の晩から、橘花は何を着るか、随分悩んだのだ。
左京に「おかしい」と言われないように、寧ろ、可愛く見せたい、と思っていた。
「きゃー!風が冷たーい!気持ちいいっ!!」
「待てったら!早いよ、お前!!」
けれど、自転車を漕ぎ始めると、次々に変わる風景と、風の気持ち良さに夢中になった。
「あ。こんなとこに墓地があるー。」
「おーい!ちょっとスピード落とせったら!」
左京の制止も聞かず、橘花は自転車を飛ばしていた。
「・・・ったく。・・・ま、はしゃぐ気持ちは分かるけどな。」
自分も気分がいいので、左京には橘花のはしゃぐ気持ちがよく分かる。
「左京くん!あそこ、なんかあるよー!」
「なにー?」
橘花が自転車を降りて駆け出して行った。
「アイスクリームカーか。初めて見た。」
「ねっ。食べたい!」
「この寒いのに?それに、朝飯食ってきたじゃんか。」
「食べたくないの?」
「・・・ま、しょうがないから付き合ってやるよ。」
「小銭くらいならあるから。」
「やった!」
朝食は食べてきたが、ここまで自転車を漕いできて、アイスクリームくらいなら食べられる。
なにより、フードトラックはあちこちにあったが、アイスクリームを売る車は初めて見たのだ。
「えっとー・・・どれにしようかな?」
「あ!これ!これがいい!これくださーい!」
「へへっ。」
「俺はチョコだな!」
「わ~!冷たーい!甘ーい!」
「ダウンタウンまで来ると、こんな店もあるのかー。」
「あれ、ウチの近くまで来てくれるといいのにねー。」
「この辺りしか廻ってないんじゃないか?ウチの前とか、案外道路狭いし。」
「ま、しょっちゅう食べるもんでもないかー。」
「おーい!その先でストップな!」
山間の道を抜けると、目の前に湖が広がっていた。
「うわ。この辺りまで来たら、なんか湖の色まで違うなぁ。」
「静かだなぁ。車の音も聞こえないや。」
あまり訪れる人もいないのだろう。周りには家もない。
静かで、風の音と水音だけが時折耳に入るだけだった。
「左京くーん!あそこ!魚、跳ねてる!!」
「よしっ!まずそこで釣るぞ!!」
「釣れるかな?」
「腕次第だろ。」
「勝負する?」
「賭け事嫌いだって言ったじゃん。」
「そっか。」
「それってさぁ、ゆとり教育ってヤツ?」
「別にそんなんじゃないよ。俺がイヤなだけ。人と比べるのとか、競争するのとか苦手なんだよ。だから今の学校は、そういうとこはいいな。」
「前は?」
「前の学校は、なんでもかんでも順位、つけられてたなー。」
「でも、成績、よかったでしょ?」
「テストの点だけはね。・・・よっ!」
「なんだ?こりゃ。」
「テストの点だけって・・・それが大事なんじゃないの?」
「そうでもないさ。」
「それ以外のことが苦手だからさぁ。せめてテストの点くらい良くなくっちゃ、親を喜ばせられないだろ。勉強は嫌いじゃないし。」
「釣りだってうまいじゃん。」
「この程度じゃうまいなんて言わないだろ。」
「あっ!釣れたっ!!」
「やったぁ!!」
「でかいの、釣れたな!」
「食べれるかな?」
「食うのか?」
「食べないの?」
「食わないなぁ。」
「じゃ、どうすんの?せっかく釣りしてるのに。」
「別に食べるために釣ってるわけじゃないよ。」
「飼うの?でも、ウチ、水槽とかないね。」
「池に放してるさ。」
「おっきい水槽、買ってもらえばいいのに!」
「うーん・・・。魚、眺めたりしたいけど、飼うのはイヤなんだよなー。」
「なんで?」
「生き物飼うのって、苦手なんだよ。」
「買ってもらうんなら、バーチャル水槽とかの方がいいな。」
「バーチャル?」
「本物じゃなくって、デジタルの魚が泳いでるヤツ。けど、高いから、ねだれないんだよ。」
「へぇ~。なにそれ。見てみたーい!」
「この辺じゃ売ってないかなー。帰ったらネットで見せてやるよ。」
しばらくそこで釣っていたのだが、何匹か釣り上げると、左京は釣り糸を引き上げた。
「どこ行くの?」
「ポイント、変える!」
「ワタシもー。」
「ついてこなくっていいぜ?あそこ、まだ釣れるし。」
「左京くんと話せないじゃん!」
「俺と話したって、面白くないだろ?」
「え~・・・面白いとか面白くないとかじゃなくってさー。」
「なんだよ。・・・よっ!こっちも獲物は似たり寄ったりかぁ。」
「ねー。左京くん、なんで釣り、好きなの?」
「なんでって・・・そうだなぁ・・・。」
「釣っても食べないし、飼ったりしないし・・・。」
「釣り糸垂れてる時間が好きなんだよ。いつの間にか時間、経ってるだろ?いろんなこと考えたり、なんにも考えなかったり、でもなんにもしてないわけじゃない、って時間。」
「そう言われてみれば・・・ずいぶん時間、経ってるね。」
不思議なことを言うな、と橘花は思った。
なんの目的もなく、ただ魚を釣り上げて、そして、いつの間にか時間が過ぎている。
けれどその時間が、橘花にも楽しい時間に思えていた。
「日が落ちたら、あっという間に暗くなるぞ。」
「だいぶ釣ったねー。」
「あ~・・・やっぱこの辺りは、夕陽が落ちるのが見れないなぁ。」
「そろそろ帰る?」
「まだ帰らないよ。けど・・・寒くなってきたな。」
それに、灯りがまったくないので、手元が暗くなってきた。
そろそろ止め時か、と二人とも釣竿をしまった。
「ね、あそこ!バーベキューできるよ!」
「ちょっとあったまるか。」
橘花が野外炉を見つけ、駆け出して行った。
「火、つく?」
「うん!」
「よしっ。」
「お前、さっき釣ったヤツ、焼いて食べれば?あれは絶対うまいよ。」
「左京くんは?」
「俺はマシュマロでも焼くよ。」
「いいの?」
「なにが?」
「お腹減ってない?お弁当持ってくればよかったね。」
「弁当かぁ。」
「今度行く時は、作って持っていこうよ!」
「次はやっぱ西の方がいいな。夕陽が落ちるトコ、見たい。」
「うん!」
夕陽が沈むのは見られなかったが、街の中心部で見るよりも、星の光が輝いて見える。
辺りが暗い分、光が届くのだろう、と思った。
「焼けたかな?」
「魚はもうちょっと火通したほうがいいよね。」
「父さんさ。」
「おじさん?」
「サシミとかスシとか好きなんだよ。」
「じゃ、左京くんが釣ったので作ってあげればいいじゃん!」
「ん~・・・食べてくれんのかな、とか思ってさ。」
「喜ぶと思うけど?」
「そうかな。」
「左京くん、考え過ぎなんじゃない?」
「なんかさ・・・あんまり一緒にいたことないから、どうやったら喜んでくれるのかとか分かんなくて。」
「じゃ、今度おじさんも誘ったら?」
「お前、簡単に言うよなぁ。」
「だって簡単なことじゃないの?」
「難しいよ。」
「けど・・・お前の言う通りかもしんないな。」
「ん?」
「スシ。作ってあげようかな。」
「うん。ワタシも一緒に作るよ。」
「魚、捌けんのか?・・・な、寒くない?」
「ん。(・・・左京くんって・・・)」
言葉は少ないが、やっぱり優しい。
考え過ぎだ、と橘花は言ったが、そうやってあれこれと考えて、いろんな想いを頭の中で巡らせているのだろう。
「あー・・・もう火が弱くなってきちゃったな。」
「ん。」
そう思うと、自分もただ、思ったことをすぐ口にするのではなく、あれこれと考えたほうがいいのかもしれない、と感じていた。
「ん?なに?」
「うん。キレイだな、って思って。」
「ああ。すっごい星空だな。」
「それだけじゃなくって・・・。」
「なんか・・・いろいろ。火の色とか、空気とか水とか。それから・・・。」
火に照らされてほてった左京の横顔が、とてつもなく美しく見えたのだ。
胸がドキドキと高鳴る。
「なんか・・・全部キレイ。世界がこんなにキレイに見えたのって、初めて。」
『なんだよ・・・。』
「キレイだな・・・。」
今まで、こんな風に感じたことなんかなかった。毎日生きるのに精一杯で、周りを見渡す余裕もなかったような気がする。
『・・・なんだよ・・・。なんか急に・・・。』
橘花が大人っぽく、女っぽく見えた。
「・・・そ・・・そろそろ帰ろっか。もう遅いし。」
「そうだね。」
「行くぞ!」
「待って!ちゃんと火、消さないと危ないから!」
それまで、ひっきりなしに喋っていたのに、急に橘花の口数が少なくなったので、左京は少し不安になった。
だけど・・・橘花の言うように、いろいろなものが輝いて見え始めたのは、この時からだった。